下松降星伝説

下松の歴史

下松市は、名前の由来にもなった星が降ったという伝説があります。推古天皇の頃(西暦595年頃)鷲頭庄青柳浦の松に大星(北辰星ともいわれている)が降り、7日7夜光輝き「百済の皇子がこの地へやって来る」とのお告げがあったそうです。それから3年後に百済からやってきた皇子が琳聖太子といわれています。人々は社を建て、大星を祭りました。このことから「星が降った松」が「降り松」となり後に「下松」となったといわれています。

かなえの松

下松は、昔青柳浦と呼ばれていた。下松と呼ぶようになったいわれを語る伝説がある。 「大内氏実録」の下松妙見縁起によると 「推古天皇(女帝)の三年(595)9月18日、都濃郡鷲頭庄青柳浦の老松に大きな星が降りかかり、七日七夜の間、目もくらむばかりに光り輝いた。里の人は、これはただごとではない」と恐れていた。その時、占いをかる人に神がかりしてお告げがあり、 「われは北辰の精である。今より三年の後、異国の太子が来朝される、その守護の為、ここに天降ったのである」 と告げた。里の人々は、急いでやしろを建てて、その星を北辰尊星王大菩薩(ほくしんそんせいおうだいぼさつ)として祭り、里の役人はこれを時の天皇に伝えたという。 北辰の精が松の木に降ったというので、それまでの青柳浦を「降松」と改め、その後、今の「下松」と書くようになったといわれている。この異国の太子とは百済王聖名の第三子、琳聖太子といい、大内氏はその子孫と伝えられている。 下松駅の北口、北斗町の町の中に立っている一本の松を、「かなえの松」という。下松地名の起源となった七星降臨の松といわれ、その木の下に、降臨の星を祀ったという金輪社がある。 松の木のそばには、「下松発祥の地、七星降臨 鼎(かなえ)の松」という文字を刻んだ自然石の大きな石碑が建てられている。昔は、三株の大きな松の木が鼎の足の形に立っていたのである。 下松の地名については百済津(くだらつ)から転訛したという説も有力である。